悲しい過去

ヒロシです。


今回の記事、書くべきかどうか迷いました。

今の日本の現状もあり

暗い内容の記事は不適切ではないかと思っていたからです。


ブログを通して日本に元気を送ることを決意したばかりだからです。

でも、世界を旅して自分たちが見たもの、感じたこと、

みんなに伝えていかないとこのブログを書いてる意味がないな、

と思ったので書くことにしました。


なので見たくない方はこれ以上下へは進まないでください。

お気楽記事はこちら





2日前、ある場所に行きました。

実はこの記事を書くかどうか以前に、

そこに行くことすら迷いがありました。


旅立つ前に姉から、

『あまり暗い過去やマイナスの力がある場所へ行くのは

私は反対だな・・・』

と言われてたんです。


でも、微力ながらこの国でアクションを起こそうとしている僕らは

その国の過去も知っておきたかったんです。

ネットの文章や写真で見るだけじゃなく

しっかり自分たちの目で。


ただ、今回の記事には写真はありません。

その理由は後ほど。


前置きが長くなりましたが、

この日僕たちが行った場所は

『キリングフィールド』

と呼ばれる場所と

『トゥールスレン博物館』


以前、カンボジアでは国民にとって悲惨な政治が行われていました。

いや、むしろそれは政治などと呼べるようなものではありません。

独裁者の名はポル・ポト。

彼はクメール・ルージュという政党を率いて

革命によって1975年から1979年までの4年間、

カンボジアで政権を握りました。


彼は食糧危機にあったカンボジアを救うため、

プノンペンなどの都市に住む住民をすべて

強制的に農村へ追いやり農業に従事させました。

病院の入院患者も無理やり医療器具を取り付けたまま移動させられました。


一瞬にして大都会プノンペンはゴーストタウンへと変貌しました。


その際、資本家、技術者、知識人などからすべての財産や身分を剥奪、

学校、病院、工場を閉鎖し、貨幣を廃止、宗教を禁止し、

さらには休日をなくし、映画や音楽の鑑賞、恋愛など一切の娯楽を禁止、

国民に許されたのは365日朝から晩まで休みなく働くことだけでした。


一方で彼が行ったのは反革命分子を徹底的に排除すること。


医者、技術者、教師などの知識人階級やそれらの人と関係を持った人、

親ベトナム党員やベトナム系住民は有無を言わさず殺されました。


海外にいた留学生や資本家は国を変えるために協力してほしいと言われ、

帰国させられた後に殺されました。

殺されるために帰って来たようなもの。


さらには歌手や芸人たちも殺されました。

歌手でなくとも歌を口ずさんだだけで殺されました。

英語を口にしただけで知識階級とみなされ殺されました。


ありとあらゆる人たちが特に意味もなく殺され、

強制労働による飢餓や過労で死んでいきました。


諸説ありますが、その数200万人とも300万人とも言われています。

人口800万人足らずの国でその4分の1の命が奪われました。

歴史上でも他に例のない大虐殺が行われたんです。


しかもそれがあったのは1975年~1979年。

ごく最近の出来事です。


キリングフィールドと呼ばれる場所はカンボジアの各地に存在し、

直訳すれば『殺戮現場』。


多くの人が目隠しをされここへ運ばれて殺された後、

無造作に埋められました。

クメール・ルージュがいなくなった後、

掘り返され無数の白骨死体が出てきたといいます。


今回はプノンペン近郊にあるキリングフィールドへ行きました。

まず目に入ったのはその中央に位置する慰霊塔。

四方ガラス張りになっていて、

遠くからでも中にあるものが何か確認できました。


そこにあったのは、

山のように積まれた

おびただしい数の

どくろ。


ここで処刑された人たちの頭蓋骨。

その手前で線香を受け取り手を合わせました。


欧米人たちはその骨の前で記念撮影をしていましたが、

それを見て何とも言えない気持ちになりました。

僕らはさすがに写真を撮る気にはなれませんでした。


慰霊塔の裏手に大きな木があります。

小さな子どもは足をつかまれ、これに頭を叩きつけられて殺されました。

すごく立派な木なのにそのことがすごく悲しかったです。


この敷地内には資料館もあり、

処刑に使用された道具などが展示されています。

そのほとんどが農作業用の道具。

銃はほとんど使用されなかったらしい。

その理由は、

弾がもったいないから。


そして、トゥールスレン博物館。

これは収容所として使用された建物を

そのまま博物館として展示しています。


元々は高校だったらしいですが、

ポル・ポト政権下では教育は不要だったため

収容所として使用されました。


いくつかの建物があり、

最初に入った建物の1階の各部屋には

鉄のベッド、足かせ、空の薬きょうが置かれていました。

薬きょうは排泄物を入れるために使用されていました。

ベトナム軍がクメール・ルージュを山間部へ追いやり

プノンペンを占拠した時、

このベッドの上で囚人たち(何の罪もない人ですが)は殺されて

そのまま放棄されていたそうです。

地面には今もまだ血の跡が残り、

壁にはベッドに横たわる遺体の写真がかけられていました。


そのほかにも狭い独房、雑居房、拷問部屋があります。


拷問部屋では実際に使用された拷問器具と

実際に使用されていた時のイラストが展示されています。

イラストですが見るに耐えないものばかり。

水責めの器具、皮膚や爪を剥ぐ器具、

イラストにはムカデを使った拷問も描かれていました。

校庭にも拷問の器具が置かれています。

こうした拷問から解放されるためには、

無関係であったとしても反乱の意思やベトナムとの関係を自白し、

自ら処刑されることを選ぶしかありませんでした。

そのためここに収容された人は2万人にもなるそうですが

無事生還できたのはたったの8名だそうです。

そしてここから運ばれて行く場所が先ほどのキリングフィールドです。


トゥールスレンで最も記憶に残っているものがあります。

数百数千にもなる顔写真です。


ポル・ポトは処刑前の囚人の顔写真を撮るのが趣味だったそうです。

本当に言葉を失います。

全員がしっかりこちらを見ているんです。

1人1人表情は違いますが、

何かを訴えているようにも見える。


そんな中に少年たちの顔写真がありました。

最初は処刑された学生のものだと思いました。


でも実はそうじゃなくて

彼らはここの看守だったそうです。

全員小学生か中学生ぐらいの少年少女でした。

そんな子たちが残虐な拷問や処刑を行っていました。


ポル・ポトは大人を信用していませんでした。

まだまっ白な子どもの方が洗脳も簡単だったんです。

そのため、この頃のカンボジアには

子ども兵士、子ども看守、

さらには医術とは名ばかりの、にわか教育を受けた

子ども医師なんていうのも多くいました。

だからここの看守もほとんどが子どもでした。

彼らはいったいどんな気持ちだったのか・・・

洗脳をされて特に何も感じずに残虐の限りを尽くしたのか、

はたまた従わないと自分も同じ目にあわされてしまうため

仕方なくやっているうちに精神がおかしくなっていったのか・・・


殺す側も殺される側も、人間は脆い。


どちらにせよ、この時代この立場に生まれていなければ、

彼らも平平凡凡に暮らし、確かな人間関係と人格を築き、

明るい未来があったに違いない。

この時代のカンボジアではどんな立場の人も

幸せだった人なんて1人もいなかったんじゃないかと思ってしまいました。


カンボジアの悲しい過去を語る2つの場所を訪れ、

亡くなった人たちの冥福を祈ると同時に、

今この時代の、日本という世界的にも珍しい平和で裕福な国に生まれた

自分たちの恵まれた環境を再確認しました。


日本人として生まれてきたことにすごく感謝します。

Incident-Filled Journey

2010年12月から2012年2月まで NYNYのスタイリストHIROSHI&HIROKOが 世界を珍道中した記録 ※ただいま以前のBLOGより引っ越し中

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